中山雅史はなぜ森保監督を呼び捨て?『ポイチ』の由来やドーハの悲劇の絆を解説!

中山雅史さんが森保一監督を呼び捨てにする理由や、愛称「ポイチ」の由来、ドーハの悲劇で結ばれた2人の関係を解説する記事のアイキャッチ画像 エンタメ・トレンド
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2026年W杯関連番組などで、中山雅史さんが森保一監督を「森保」と呼んでいる姿を見て、

「監督なのに呼び捨て?」
「失礼じゃないの?」
「2人はどんな関係なの?」

と気になった方もいるのではないでしょうか。

実は、中山さんと森保監督は1993年の「ドーハの悲劇」を共に経験した戦友です。

さらに、森保監督の愛称として知られる「ポイチ」の誕生にも、中山さんたち当時の日本代表メンバーが関わっていました。

今回は、中山雅史さんが森保監督を呼び捨てにする理由や、「ポイチ」の由来、そしてドーハの悲劇で結ばれた2人の絆についてまとめました。

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中山雅史が森保監督を呼び捨てにする理由は「1学年上の先輩」だから

「ゴン」こと中山雅史さんが、日本代表の森保一監督を「森保(もりやす)」と呼び捨てにする理由は、中山雅史さんの方が、「1学年上の先輩」だから、が一つ目の理由です。

  • 年齢・学年:中山雅史さんは1967年生まれ、森保監督は1968年生まれで、中山さんの方が学年が1つ上になります。
  • 体育会系のJリーグ黎明期(現役時代)からの上下関係もあり、先輩である中山さんが後輩の森保監督を呼び捨てにするのは、当時のサッカー界では自然なことでした。

学年の上下関係は、昔の方がしっかりとあった、という感覚かもしれませんね。

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中山雅史と森保監督は「ドーハの悲劇」を共に戦った戦友!

また、中山雅史さんが森保監督を呼び捨てにするのは、年齢差からだけではありません。

2人が1990年代の日本代表(通称:オフトジャパン)で共に戦った、固い絆で結ばれた「戦友」だからという、もう一つの理由があります。

  • 2人は1993年のアメリカW杯アジア最終予選を共に戦い、あの「ドーハの悲劇」をピッチの上で同時に経験した特別な仲間(戦友)です。
  • 当時の代表チームは非常に結束が強く、メディアや周囲がどう変わろうとも、当時の仲間たちの間では現在も現役時代の距離感(「ゴン」「森保」)のままフランクに呼び合っています。

あの「ドーハの悲劇」を共に戦い、共に感じて、共に泣いた選手たちの絆は、私たちが周りから見るよりも、もっと強固なものなのだろうと胸が熱くなる想いです。

森保監督の「ポイチ」の由来にも中山雅史が関係

ハンス・オフト氏が日本代表監督に就任し、カタールのドーハでワールドカップアジア最終予選を戦っていた時期、まだ無名に近かった森保監督の名前が「森・保一(もり・やすはじめ)」なのか「森保・一(もりやす・はじめ)」なのかチーム内で話題になりました。

その際、福田正博さんが「モリポ?」とからかい始め、そこに中山さんが鋭い突っ込みを入れるなどして、現在の愛称「ポイチ」が定着したというエピソードもあります。

これについては、森保監督の代表入りについての経歴を知っておくと、納得するポイントが多いかもしれません。

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森保監督の「日本代表選手」としての経歴は?

1992年~1993年頃の話になるのですが、森保監督はハンス・オフト氏に大抜擢されて日本代表入りを果たしました。

当時、日本リーグ(Jリーグ開幕前)の2部(マツダSC)でプレーしていた無名の森保監督を、オフト氏が日本代表のボランチとして突如大抜擢したエピソードは日本サッカー界の伝説となっています。

森保監督が「無名から代表の主力」へ駆け上がり、「ドーハの悲劇」に至るまでの時系列(代表選手としての経歴)は以下の通りです。

森保一・代表選手としての時系列(1992年〜1993年)

  • 1992年3月:運命の出会い(オフト監督就任)
    • オランダ人のハンス・オフト氏が日本代表初の外国人監督に就任。
      オフト氏は前年までマツダ(現サンフレッチェ広島)を率いていたため、当時2部で泥臭くハードワークしていた森保選手の才能(危機察知能力や守備力)をすでに熟知していました。
  • 1992年5月:衝撃の「無名」での代表初招集・初先発
    • キリンカップ(アルゼンチン戦)で日本代表に初招集。
      実績が全くなかったため、チームメイト(カズさんや中山さんなど)は「森保って誰だ?」「苗字は森か?森保か?」とざわつきました。
    • しかし、デビュー戦でいきなりスタメン起用されると、世界強豪を相手に素晴らしい守備を披露。
      相手のアルゼンチン代表監督から「日本の17番(森保)が良かった」と絶賛され、周囲の懐疑論を実力で黙らせました。
  • 1992年11月:アジアカップ初優勝(日本の主力へ定着)
    • 地元・広島で開催されたアジアカップにレギュラーとして出場。
      オフト監督から授かった「泥臭くボールを奪い、司令塔のラモス瑠偉にシンプルにパスを出す」という「水を運ぶ人」の役割を完璧に遂行し、日本の大会初優勝に大きく貢献しました。
  • 1993年5月:Jリーグ開幕
    • サンフレッチェ広島の主力としてJリーグ初年度を戦いながら、日本代表の不動の背番号「17」として定着。
  • 1993年10月:「ドーハの悲劇」
    • アメリカW杯アジア最終予選。
      森保選手は中山さんらと共に全試合にフル稼働。
      本大会出場まであと一歩に迫った最終戦(イラク戦)のロスタイムに同点ゴールを許し、ピッチの上で泣き崩れました。

なぜ「大抜擢」と言われるのか?

当時の日本代表は、カズさん、ラモスさん、中山さんなど「華やかなスター選手」ばかりでした。

その中に、Jリーグのスターでもなく、アンダー世代(ユースや大学選抜)の代表経験すら一度もない23歳の若者がいきなり現れ、瞬く間に不動のレギュラーになったため、文字通りの「シンデレラストーリー(大抜擢)」として語り継がれています。


この1992年〜1993年の濃密な2年間で、共に汗を流し、大金星を挙げ、最後に地獄(ドーハの悲劇)を見たからこそ、先輩である中山雅史さんは現在でも親愛の情を込めて「森保」と呼び捨てにしているのです。

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まとめ

中山雅史さんが森保一監督を「森保」と呼び捨てにする理由は、中山さんが1学年上の先輩であることに加え、1993年の「ドーハの悲劇」を共に経験した特別な戦友だからでした。

また、森保監督の愛称として知られる「ポイチ」も、日本代表メンバーたちのやり取りの中から生まれた愛称だったことが分かりました。

当時の日本代表は、アジアカップ初優勝やW杯初出場を目指して戦った、日本サッカー界にとって特別な世代です。

その中で共に喜び、悔しさを分かち合った仲間だからこそ、30年以上経った今でも「森保」と呼び合える関係が続いているのでしょう。

現在は日本代表監督として世界と戦う森保監督ですが、その姿を見守る中山雅史さんとの関係には、日本サッカーの歴史そのものとも言える深い絆が感じられますね。

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